2010年06月07日

人生と 自慢

あまり自慢ばかりする人はハナに付くが

(まあ、これには、
 人の話を聞かずに…
 ってのがついて、それで嫌がられるのが多いとも思う)

自慢を 無邪気に しあいっこ 
という
大らかな社会の方が愉快に過ごせるような気もする。


私は、どちらかというと

「自慢をする人」をツマラン奴 と見る家庭文化で育ったので
どうも自慢話の雰囲気が出ると居心地が悪い。
人の自慢話はまだしも、自分では自分の自慢話をしたくない。

自慢でなくても、
あれこれ 自分の方から話をするのも
沢山しゃべると、なんだかちょっと自分に居心地が悪い。

でも、一方で、
まぁ、いいじゃないの、自慢くらい
お互い 自慢しあって、 誉めあって
そのほ〜がいいんじゃない? って
吹っ切れた様に思うのです。

ねぇ… (^^)
い〜〜んじゃないかなぁ、そういうのも。

まあ、つまりは、それによって
おおらかな社会ってのを実現させたいのですけどね。
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2010年06月04日

気力の充実

平和な人の世では ついつい忘れがちになることもあるが

生きていくということは本来 気力が充実してなければ適わない
という側面がある。

太古の昔には、食料確保が大変であったし
他部族との抗争、野獣との闘い、天変地異との闘い
どれも気力が必要であった。

現代では、
仕事をなんとなくこなしていればそれなりに生計がたつ
という側面もあるので
タマに面倒な事がおこるとつい逃げ腰になったりする。

しかし、こころの持ちようとして、
「生きていくということは本来 
  気力が充実してなければ適わない」

ということを腹蔵しているならば
瞬時に気力充実の状態に持っていけるような気もする。

また、気力をもって仕事をすることは
生きることの密度を濃くすることでもあるように思う。

気力の発揮は人生の醍醐味である。
そう思って生きていきたい。
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2010年06月02日

いろいろな生き方について

人生の送り方は人さまざまで

芸能界を目指す人もいれば、農業を目指す人もいる
コック、パイロット、画家、サラリーマン、様々な目標や満足がある。

芸能界だって、人から認められるのが嬉しいという人もあり
人を笑わせるのが好きというのもあり、
歌を歌いたい、演劇の魅力にとりつかれた、名声はどうでもいい
というのもある。

それぞれ、自分の人生の実感の仕方が違うということだ。
これは有難いことで、
皆が同じ事でしか人生の実感を味わえなければ
とんでもない競争になるのではなかろうか。

考え方一つで、何が人生に満足をもたらすかは違ってくる。
その考え方がころっとかわる事もある。

名声・名誉にとりつかれていた人が、ある時家族の大切さに気づく
というのは映画などでもよく取り上げられるパターンだ。

ただ、自分の存在をまず自ら実感したいというのが
どの人生であれ人間共通の望みであるようにも思える。

そう考えると、どんな人生であれ、
自分が納得できるかどうかが一番大切だということになる。
(無論、そのために人を犠牲にしていいということはない。)

その納得感が何によって得られるかは人によって様々だ。
哲学を追い求めるのも、数学にとりつかれるのも
坊さんになるのも、内なる欲求のなせるわざだ。
これらの生き方には他人の評価はあまり介在する余地がない。
自ら内包する絶対的な希求感というものを追求することになる。

ただ、あまりにそういう絶対的なものを追うと
人間、動物、生命に天から与えられたものを軽視してしまうかもしれない。
食を取らず、睡眠を削り、精神的なものに傾注してしまい勝ちとなる。
食欲、睡眠欲、色欲、それらは天から与えられたのであって、
極度に軽視してしまうとやはり「生の本質」を外す認識しか得られないし
自らの「生」を軽視して、命を自ら絶つということになるのではないか。

人間はつい、
自分の人生に悲観し、俗悪なものを否定し、他人への面当てに
自殺をしてしまったりもする存在であるが

やはりどうやら自殺というのは「本解」ではないように思える。

(「本解」は「正解」に近い概念として出した。
 正解というと何か一つだけ正しい解というような響きがあるので避けた。)

いわゆる「俗」を否定せず、
それを大きく取り込んでなお「生の本質」をしっかり見つめる
そういう立場で、満足のいく人生 というやつを送りたいものだ。

「生の本質」を考えるときに私は歴史を考える。

弥生時代、室町時代、江戸時代、いや昭和初期にだって夢みてなかったような
豊かな時代を今我々は送っている。

昔から比べれば、
王侯貴族でさえ食べることの出来なかったご馳走を
我々は毎食食べている。
(平均的な家族でも、普通に食べることができる、というべきか)

では、昔の人より今の人は幸せなのだろうか。

その観点が私の頭を離れることは無かったし、
今後もないだろうと思うのである。
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2010年01月26日

金は天下の回りもの

「金は天下の回りもの」

広辞苑によると、

『金銭は一人の所にとどまってはいない。貧富は固定したものではない。
「金は天下の回り持ち」とも。』

とある。

個人的には、
お金は使ってもいつか返ってくる。
使いどころを間違えるな。
と理解していた。

具体的にいうと、
友達付き合いにゼニ惜しみをするな。
勉強の投資に金を惜しむな。
というような理解をしていた。

さて、今日、ふと思ったのだが、

我々の貯金。
これは表向きは回ってないが、
銀行などに預けているとそれが投資資金に使われて
実は「天下の回りもの」としての役割を果たしていた。

それが、昨今、「投資先」とやらにこまり

(つまりは、簡単にゼニもうけができそうな
 投資先という「夢の存在(?)」がなくなり、
 夢の替わりに必要な知恵もなく…)

金が回らなくなったのがこの不況のようである。

いま民主党のいっている「個人に金を回す」というのは、
投資で回らないのなら「個人消費」という形で回すなら
経済はもっと好転するという事だろう。

そんなに簡単なモノなのか、とはちと思うが
理屈の上からは合っているようにも思う。

今話題の鳩山首相家の金の回り方からすればまことに知れたものだが
自分の日々の暮らしからみればそれなりにまとまった額ではある、
親の残してくれたものに接して、そう思った次第ではある。

質素を生き様としていたのはわかるが
もっと自分のために使ってくれればよかったのに…。
posted by 得鰤日々 at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年01月22日

父の生き方

先日、父が他界し
彼の人生についていろいろと考えた。

仕事の上からは別に大した業績を上げているわけでもないけれど
生きること、またその一部である死ぬ事 をしっかりと見つめて
人生の本質とは何かを大事にした生き方だったと思う。

母を父が30代の後半の時に亡くしたが
ずっと再婚せずに我々兄弟を育ててきた。
(祖母の貢献もあったが)

形にはこだわらず
贅沢はちっともせず、
モノを大事に使い、
他人にはやさしく、
ただし、自分の事に関しては
自分の一存を押し通した。

人生の難事にも、自らの死にも
決してうろたえることがなかった。

その人の息子として
与えられた人生をしっかりと生きていきたい
そう、改めて思う。
posted by 得鰤日々 at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年01月03日

万葉集

ドナルド・キーンさんが戦後、
戦地で日本人捕虜の所持品調べに係わったとき
本のなかで一番多かったのは万葉集だったそうな。

また、戦地に送られる兵士が
たった1冊所持をゆるされたときに持っていく本として
一番多かった選択が万葉集だったそうで、
これは検閲のあるなか、
万葉の何番と指定することで心を代弁したということらしい。

どちらも知らなかった事実だけれど
「人の人たるはかくのごとし」と思うと同時に
日本文化のなかなかの奥深さにあらてめて感じ入った。
posted by 得鰤日々 at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年01月02日

感動の対価

感動の対価という事を考えた
これはサービス業の原点という意味としてである。

まず、例を挙げてみる

大道芸人がなにか芸をしていたとする。

つまらない芸にはお金を払おうとはおもわないが
自分が感動すれば、
お金を払いたいという気持ち
は自発的に心に内発し、内包されるように思う。

だからそこで芸人が帽子でも差し出せば
それに触発されて包まれていた自分の心の包みがほどけ
帽子にコインなり札なりを投げ入れることになる。

そこには、相手の芸と相手を認める事と、
相手を認めている自分(認める能力のある満足感を含めて)
を認める事

また
相手への評価として対価を投じる事によって
自分の感動の再確認をする事
が含まれているように思う。

ひろく考えると
「サービス」が有価であり得ること
つまり、サービス業で食えるという事
はここに原点があるのではないかと思う。
posted by 得鰤日々 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年01月01日

托鉢

入院中の父の見舞いをしにいったら、

病院の近くに托鉢僧がいましたので
些少の喜捨をしてきました。


ネットで見ると、
托鉢を詐欺ではないかと見る人や
実際にあやしい事例なども出ていますが

それはそれで現実なのでしょうね。

でも、
ダマサレタとしてもそれでいいのではないでしょうか。
「喜捨」とは字の通りであって、
どう使われようといいはずなのです。
誰かの役に立てば。

それで自分の生活がめちゃめちゃになるような額なら別ですが、

金は天下の回り物といいます。
循環してこそのお金でしょう。
そもそもそのための物ですからね。お金は。
posted by 得鰤日々 at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

年賀状 ならびに ご挨拶

新年明けましておめでとうございます。

2010年は年賀状がえらく早く届きました。

8時頃です。
郵便局も民営化だ、民営化取消だ… とかで
気合いが入っているのでしょうか?

さて、ここのところ年賀状を書き始めるのが年末押し詰まってからで
年を越してから書くはめになるものも相当数に登っています。

(まだ、お届けしていない皆さん、ごめんなさい。)

まだお送りしていない人からの年賀状が届くと
なにやら罪悪感のようなものがじわっと湧いてきて
どうにも居心地が悪いですね。
ま、実から出たサビですが… (苦笑)

さて、
いただいた年賀状のなかには、
こちらの名前がまちがって記載されているものがあり、
こういうのは一度間違うと修正されにくいのだろうなと思う一方
(間違いを指摘する機会がないですから。
 わざわざ間違ってますと連絡するのも居心地悪いし)

こちらも間違えてないだろうかと、気の引き締まる思いです。

さてさて、このブログも

「とにもかくにも毎日ブログ」がパタリと書き込みが続かなくなり
第二弾として始めたモノの
書いたのは2つの記事だけで9月からやはり停止中
というありさまでした。

年があらたまったのと
年賀状にこのブログのアドレスを紹介したこととで
再開の良い機会ととらえた次第です。

毎日とはいかないだろうと思いますが
読んで何がしかの気づきがあるような内容で
できるだけ頻繁に更新していきたいと思います。

よろしくお願いします。
posted by 得鰤日々 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年09月27日

東京行きの夜行バスに乗っています。

結構大変な面はあるのですが、旅の刺激であれこれと思い浮かぶ事との対面がなんだか気に入ってます。

これは「夜行」ならではのような気がします。
posted by 得鰤日々 at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記